西洋絵画に浮世絵版画の「手法」を採り入れた藤田嗣治の衝撃

「世界の物語」から「あなたの感性」へ

14世紀初めのジョットから600年間、絵画は「異次元への窓」だった。そこに人は「歴史」と「神話」、つまり「特筆すべき過去の物語」を見た。その物語の「真実らしさ」を保証する手法が「遠近法」だった。それは絵の奥行であり、背景であり、どんな場所のどんな時のことなのかを明らかにしている。その絵に固有の世界が、そこに厳然としてあることを、我々に感じさせたのだ。

もう一つ、守らなければならなかった「約束事」がある。それは、絵の中の人物の視線が、こちら側を見ていないことだ。視線の交錯は絵の中で完結しており、絵画の表面に張られた「結界」を超えて、こちらに向けられることはない。

この説明に疑問を持たれる人もあるだろう。

肖像画では、人物が真正面にこちらを見ているものがある。それはどうなのか?画家が肖像画を描く場合、その対象は王侯貴族か、パトロンであるブルジョワである。ブルジョワはともかく、王侯貴族は、その時、その国の歴史を創造する者として意味づけられる。画家は宮廷画家として、その仕事を「請け負って」いる。ヴェラスケスは、その代表例だろう。王や王子、王女は、画家を信頼してその前に立った。そして画家からこちらを見るように指示された。彼らのこちらを見る目は、自身を理想的に描くに違いない画家を見つめる、温かい視線だ。

もう一つ例外がある。画家が、絵の中に自らを描き込んだ場合だ。よく知られている例としては、フィレンツェ・ルネサンスの代表的な画家ボッティチェリ『東方三博士の礼拝』(1475年)がある。

画面の右端に立っている男が、こちらを見ている。これがボッティチェリ本人だ。なぜそう言えるのか?この人物は、まるで夢から覚めたように、絵の中の物語から一人抜け出して、こちらの世界に視線を送っている。そんなことができるのは、この絵の世界を創造した人間以外にはいない。つまり画家本人というわけだ。

こうした約束事を敢然と破った人物が、あのマネだ。つい最近、東大教授の三浦篤さんが著した『エドゥアール・マネ 西洋美術史の革命』という本を入手した。出版は2018年の10月。私がこのエッセイでマネの重要性をどう説明しようかと悪戦苦闘していた時だ。いまごろ、こんな優れた著作があることに気づくなんて迂闊だったが、一方でシンクロニシティを感じて驚いてもいる。

ともかく「オランピア」の売春婦は、マネという画家を見ているのではない。好奇の眼で裸をみようとする「鑑賞者=あなた」を、睨み返しているのだ。この女は、ヴィーナスでもダナエでもない。近代という「今」の、どこにでもいる、名もなき、記憶するにも当たらないであろう、ただの女だ。その近代には、なんら「特筆すべき物語」はなかった。社会はどこまでも砂漠のように索漠としている。歴史は、たとえ幾度「革命」を繰り返そうとも、結局は市民の手の届かないところで、誰か見知らぬ者の手で動かされていた。過去の物語は意味を失ってしまった。それを描く際の約束事も、すでに無用の長物である。

こうして、マネに続く印象派の画家たちは、当時明らかにされてきた「光学理論」に基づいて、網膜に映る形象の探求に乗り出した。モネやピサロは、なんでもない風景を執拗に描いた。そこにはどんな物語もなかった。ただ外界を光の粒に分解して、どこにでもある風景が「本当はどう見えているのか?」だけを問題にした。それは生理的な反応であり、画家という一個の人格が、外界とどのように向き合ったかということではなかった。セザンヌの有名な言葉、「モネは眼にすぎない。しかし何という眼だろう!」を思い起こしてほしい。

マネのあと、画家たちは「遠近法」という約束が反故になったために、もう一度世界を「自分なりの方法」で再構築しなければならなかった。20世紀に入って、やはり問題になったのは「裸婦」だった。西洋の人々が「精神的な故郷」と考え続けてきたギリシャでは、人間の肉体が、すべての美の基準だった。(実を言えば、それは本来男性の肉体だったのだが、いつかヌードの主流は女性になった。)

「人間の裸は美しいものである」というのが、ギリシャ以来の西洋美術の信条だった。

20世紀を代表する美術史家ケネス・クラークは『ザ・ヌード』の冒頭でこう言っている。英国語は、その巧妙で幅の広い語彙でもって、はだか(naked)と裸体像(nude)を区別している。はだかであるとは着物が剥ぎ取られているということであり、そこには大抵のものならそんな状態になれば覚えるはずの、当惑の意が幾分か含まれている。・・・裸体像とは紀元前5世紀にギリシャ人が発明した芸術形式であった・・・人体とはわれわれ自身なのであり、われわれが自身に関してこうしたいと願っていることの、すべての記憶を呼び起こす。そしてわれわれは何よりもまず、自分自身の永遠化を希求しているのである。

鋭敏な画家たちは、もう一度ここから出直そうとしたのだ。20世紀美術の最大の問題作である、ピカソの『アビニヨンの娘たち』(1907年)も、モディリアーニの一連の裸婦画も、マチスやクリムトや、そしてフジタの裸婦画も、そうした試みの証であった。それぞれの方法で裸婦を描くことで、彼らは新しい美を創造した。

その中に、究極の答えを出した人間がいる。マルセル・デュシャンだ。その『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称大ガラス)』(1915-23年)は、大きなガラスの板に鉛の箔が貼り付けられた、難解至極な作品。一言でいえば「ナンセンスの極致」のような作品だが、重要なのは、キャンバスにかわって透明なガラスが使われていることだ。

当たり前だが、ガラスは向こう側にあるものをあらわにする。向こう側も、こちら側と同じ現実世界だ。これは「異次元への窓」を志向した西洋絵画への徹底的な否定である。

さらにそのタイトル、「裸にされた花嫁」は英語では“The bride stripped bare”だが、つまり「裸にひん剥かれた花嫁」であり、クラークの言い方に従えば、ヌードではなくネイキッドだといっているのだ。西洋が描き続けたヌードというものは、幻に過ぎない。所詮は、ひん剥かれた恥ずかしい裸体、みじめな、醜い、つまり描く価値などない対象にすぎなかったのだと、デュシャンは告発したのだ。

大げさに聞こえるかもしれないが、21世紀のいま、私たちはデュシャンによって木っ端みじんに砕かれた、ガラスの破片の散乱するような、荒涼たる世界に立っている。西洋美術の歴史は、いったん幕を下したのだ。そこから、もう一度、「美」というものを信じ、再建させることができるのか。人間は、細分化された感覚でしか美を感じることができないという「事態」から、再び、全体性を回復できるのか・・・。

オノレ・ド・バルザックの有名な言葉がある。「希望が、過去にしかない」。私たちが西洋美術を「今」この時に観賞するということは、現代人が「全身で美を感じる」ことが可能かどうか、その手掛かりを過去の中に探り出そうとする試みに他ならない。

◇山下 茂(やました しげる)
NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー
1961年広島県生まれ。東京大学文学部国文科卒。1984年NHK入局。情報番組・経済番組などのディレクターを経て、美術番組のプロデューサーに。現在、NHKエンタープライズで、美術・歴史番組の制作に当たっている。

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