日本生まれのフランスの画家・彫刻家の藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)が「浮世絵版画」の方法を、巧妙に西洋絵画へと「摂取・利用」した点について考えていこう。1934年のフジタの講演にも、鈴木春信と喜多川歌麿の名前が出てくるが、ここでは特に歌麿の美人画に注目したい。例に挙げるのは、歌麿の最高傑作のひとつ『歌撰恋之部 物思恋』。眉をそり落としているところからすると、人妻であろうか。頬杖を突き、物思いにふける風情は、夫以外の男のことを思い浮かべているのか・・・。
浮世絵版画の手法を西洋絵画に採り入れたフジタ
浮世絵の専門家たちは、しばしば「髪の毛の生え際の細かさ」に注目する。この部分を「毛割(けわり)」と呼ぶが、この「物思恋」でも、それは見事な出来映えであり、熟女の色気が匂い立つようだ。しばしば、版画より同じ画家の肉筆の方が「価値が高い」と思っている人がいるが、実は肉筆では、これほど細く「髪の毛」を描くことはできない。
浮世絵版画は、絵師・彫師・摺師の共同作業で、彫師は絵師の下絵をもとに、硬い山桜の板に彫りこむが、そこには0.1ミリの幅の線を彫ることができると聞いた。日本画に使われ、そしてフジタも使った、最も細い線が描ける筆「面相筆」でも、この幅で髪の毛を描くことはできない。
浮世絵版画は、こうしてできた「版木」を和紙に摺り込むのだが、特に「毛割」の見事さを見せるために、摺師は顔の部分に色を塗らず、和紙の「白い生地」の上に、髪の毛のある黒い版を摺り込む。これが、髪の毛の「黒」と女性の肌の「白」が、際立った対照を見せる効果をもたらす。
そう、フジタはこのやり方を自分の作品に採り入れたのだ。乳白色のどこまでも滑らかな下地を作り、それを極く細い線で囲う。埼玉県立近代美術館に常設展示されている『横たわる女と猫』(1931年)を見ていただきたい。
普通、絵画(西洋風に言えば「タブロー」)は、絵からその「対角線の3倍の距離」で鑑賞するのが良いとされる。こうすると全体がすっぽり視覚に収まり、画家が表現しようとした構図全体を、視線を移動させることなく、くっきりとみることができるからだ。
しかし、フジタの絵はすぐに近寄ってみたくなる。離れてみると、絵が繊細過ぎて良く見えないからだ。
『横たわる裸婦と猫』を見てみよう。黒地の背景の手前に白いベッドがあり、裸婦がうつぶせに横たわっている。その構図は完璧だが、鑑賞者には裸婦の肉体はシーツの白と見分け難く、細部にまでは「焦点」が合わない。そこで絵に近付くことになる。すると背中から肩への線が「極細」で引かれているのが分かる。さらにその線は、腕にのび、足にのびているが、その間に「切れ目」はない。どんな達者な画家でも、一息にこんな柔らかい、見事な線を引けるはずはなく、どこかで線をつないでいるはずなのだが、そのつなぎ目が見つからない・・・。
このとき、人はもう、かなり絵に接近している。そして、もっと細かく「見たい!」と思う。そこで、さらに近づくと、極細の輪郭の中の白い肌(実際は何も描かれていないのだが)の滑らかさ、美しさが「見る」のではなく「触っている」かのように感じられ、その美しさにうっとりする。裸体には薄く陰影が施されているが、大部分は下地の白のまま、つまり「空虚な余白」にすぎないのだ。このとき、もう鑑賞者は完全に全体を見失っている。自分が絵の中に入ってしまったのか、あるいは絵の方から結界を超えて自分に迫ってきたのか・・・。
これが西洋の画家が思いもつかなかった「フジタのマジック」だ。
ところが、それは歌麿などが浮世絵美人画で企んだのと同じ手法を用いている。いま、美術館で浮世絵を見るときは、ガラスやアクリルの入った額縁に収められたものが壁にかけてあり、浮世絵を幾分「距離を置いて」見ることになる。しかし、江戸時代には「かけそば一杯の値段」といわれた浮世絵版画を買った人々は、家に帰り一人になって、それを手に取り「のぞき込む」ようにして見たのだ。
「視覚への不信」という欧州の美術界に起こった異変を受け止め、フジタは「離れて見る」ことから「舐めるように見る」ことへ、つまり「絵画」を触覚的に楽しむという「日本の伝統」を導入することによって、西洋絵画世界に新生面を切り開いた。これは、フジタのもたらした衝撃の、最大のものだったといっても良いように思う。