西洋絵画500年の伝統を破ったフジタの「新しい絵画」

フジタとモディリアーニの不思議な因縁

もう20年近く前になるが、私は2001年から3年間、NHKの名古屋局にいた。局のすぐそばに愛知県美術館があり、名古屋市内の白川公園には地元出身の建築家・黒川紀章設計の名古屋市美術館があって、時間があれば、よくどちらかに行った。

愛知県美術館の方は、クリムトの『人生は戦いなり(黄金の騎士)』(1903年)が目玉。日本の公立美術館が初めて収蔵したクリムトだった。

一方で名古屋市美術館の目玉といえば、モディリアーニの『おさげ髪の少女』(1918年)。1986年、3億6,000万円で購入されたが、33年後の今だと80億円はするという。裸婦画ではなく、可愛らしい少女の肖像だが、この同じ少女をフジタがやはりモデルにしている可能性があるのだ。

さて、いまから22年前、千葉県の川村記念美術館で「モディリアーニとその時代」という展覧会が開かれた。モディリアーニ自身の絵は8点しかなかったが、おそらくいずれも個人所蔵の作品で、見る機会のあまりない、貴重なものばかりだった。
その中には、去年、172億円で落札されたあの『左向きに横たわる裸婦』(1917年)があり、また『おさげ髪の少女』と同じモデルを描いた『ベレー帽の少女』(1918年)もあった。さらに『二人の少女』(1918年)という作品があり、これを見たとき、新橋にあった「松岡美術館」(現在は白金台にある)で見た、フジタの『二人の子供と鳥籠』(1918年)が、すぐに想起させられた。

以前紹介した、フジタの研究家・林洋子さんによると、1917~18年の短い間、フジタとモディリアーニは親交を深めたという。もう一人の画家、シャイム・スーチンとともに、3人で同じアパートで暮らし、1918年にはルノワールがアトリエを構えた南仏カーニュを一緒に訪ねている。不思議な因縁だが名古屋市美術館には、フジタの『カーニュ風景』(1918年)がある。

1917年に、モディリアーニが生涯で唯一の個展を開いたことは既に述べたが、同じ年にフジタも最初の個展を開いている。フジタがモディリアーニを意識し、その裸婦を見たことは間違いない。

裸婦画を通じてルノアールは「預言」した

カーニュのルノワールのアトリエで、モディリアーニは自身の裸婦画を巨匠に見てもらっている。「きみは楽しみながら絵を描いていますか?絵とは、楽しみながら描くものです。女を愛するときのように描くものです」。ルノワールは「一期一会」となる後輩に、そう言ったという。二人の芸術観の違いが決定的に示された瞬間というべきだろう。

その時、フジタが同席していたかどうか、確かには分からないが、このエピソードを良くかみしめたには違いない。フジタが、初めて裸婦画を発表したのは、1921年秋のサロン・ドートンヌである。ルノワールは2年前、モディリアーニは前年に亡くなっているというタイミングだ。二人の死を見送りながら、フジタはそのいずれとも異なる、全く新しいスタイルを持つ裸婦画の創造に乗り出した。

ルノワールの裸婦画は、女性の肉体的な豊かさを表現することを目指したものだ。「果物」は、見るだけで鑑賞者を幸福にするような「多幸感」を与えるが、そんな裸婦画を描きたいと思い続けていたのだろう。

そのためにルノワールがとった方法は、太ったモデルを使うことだった。あばらが浮き出るようなやせた女性は、1点も描いていないだろう。骨っぽさなど全く感じさせない、「脂肪の塊」としての女性。もちろん、かつてマネから厳しく指導された経験を持つルノワールの絵にも、物語性=情緒はない。一切のコンテクスト(文脈)から断ち切られた「女という果物」が、そこに転がっているだけだ。

一方、モディリアーニの方は、反対に「骨」を描くことに眼目があった。皮膚や髪の毛の内部に隠れている背骨や胸骨、頭蓋などを、どれほど見る者に感じさせることができるか。それは、絵を彫刻のようなものにすることだった、といっても良い。それが、アカデミズムの伝統的な「明暗法」や「肉付け法」などで描かれた裸婦画よりも、むき出しの実在感を与え、見る者に「卑猥」な感じを与えるのだ。

ルノワールの「印象派の理論」を突き詰めたところで描かれた、幸福な光を発散する裸婦画。モディリアーニの、イタリア・ルネサンスの「彫刻」に淵源を持つ、彫刻的な(つまり言葉を拒否する)むき出しの実在感を持った裸婦画。そのどちらでもない裸婦画を描くことを、フジタは目論んだのだ。

1934年に日本に帰り、朝日新聞社で個展を開いた際の講演会において、フジタはこう言っている。

「ルノアールに至って初めて血の通っている女を描き出した。が、僕は女の裸体を手掛けるにあたって、今まで何人もかつて手をつけなかったものを発見し、先人未踏の大地を拓きたいと思った。われわれの祖、春信、歌麿などは婦人の肌を描き出した。僕も日本人である以上、これら先人の轍をふんで人間の肌を描く事に気づいた。(中略)やわらかい、押せばへこむような皮膚を通して画のもっとも重大な条件である『質』を描く事にした。眼に直接触る肌は、眼に直接触る画の肌であると思った」

裸婦画を見る者に「女性の肌」を感じさせる。いや、肌に触り、撫でているような「錯覚」を味合わせる。これがフジタのとった戦略だった。

ここで重要なことは、「視覚への不信」が語られていることだ。「視覚によるイリュージョン」という、西洋画家が夢見続けた歴史の断念といっても良い。

500年追求された「イリュージョン崇拝」を破壊する

「視覚によるイリュージョン」こそ、14世紀にジョットが打ち立て、15世紀にマザッチオによって突き進められ、レオナルドなどルネサンス期の画家たちが完成させて、以後500年西洋絵画の伝統となった「遠近法」だった。それと「訣別」するというのだ。

もちろんフジタ一人が、果敢に「遠近法」を捨て、新しい絵画の扉を開いたというつもりはない。「遠近法」との訣別は、マネによって準備され、印象派やゴッホ、ゴーギャンによって掘り下げられ、「フォービスム」「キュビスム」の運動によって、既に成し遂げられていたことだ。

だが、なぜ彼らは「訣別」したのか。

「遠近法」は、「私が」「いま」「ここから」見た光景を画面に忠実に描き出す、という約束の上に成り立っている。「私には、こう見える」。だから「真実」なのだ、という傲慢なイデオロギーがそこにはある。ところが「私には、こう見える」ということ、それが「真実」であることの保証にはならないと、マネたちは考え(あるいは気づき)始めた。「視覚」は、絶対なのか?「私」という人格は、その理性は、信頼できるのか?

やがて、フロイドが「無意識」を発見するこの時代、既に画家たちは、自身の「視覚の絶対性」を疑うようになっていた。例えばピカソとブラックは、一つの視点で満足せず、複数の視点からとらえた対象を絵の中で合成する、という手法、つまり「キュビスム」を考え出した。さらに「フォービスム」の画家たちは、ゴッホに倣い、対象を前にした時に自身のうちに沸き起こる感情=「主観」を、理性で抑え込むことなく、そのまま画面に定着させようとした。

500年来の約束事が「破綻」し、画家たちが「未踏の荒野」に踏み出したこの時代。問題は、そこで「どのような裸婦画を描くか?」にあった。モディリアーニの挑戦もこの文脈の上にある。

フジタのユニークさは(画家なら誰でもする)キャンバスの下塗りで、画面を白く滑らかにしたあと、その「キャンバスの白」を、そのまま「女の肌」にしてしまったことにある。これは本当に「偉大な発明」だった。

ゴッホ以来、いやマネ以来といっても良いが、キャンバスに絵の具を叩き付けるようなタッチで「厚塗り」することが当たり前になってきていた。実はアカデミズムでは、絵肌は「つるつる」にするように教える。ルーブル美術館に収められている絵画は大抵そうなっている。

しかし、それでは描き手の「感情」は伝わらない、とマネは、モネは、そしてゴッホは考えた。「オルセー美術館」に収められた絵画は、そんなタッチの生々しさを特徴としている。

19世紀後半以来、近代の優れた画家たちによって打ち捨てられた「滑らかな絵肌」を、フジタは「取り戻そう」とした。大胆にも、その絵肌をそのまま女の肌にしてしまおう、と考えたのだ。
そして、それにはよき先例があった。「浮世絵版画」である。

◇山下 茂(やました しげる)
NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー
1961年広島県生まれ。東京大学文学部国文科卒。1984年NHK入局。情報番組・経済番組などのディレクターを経て、美術番組のプロデューサーに。現在、NHKエンタープライズで、美術・歴史番組の制作に当たっている。

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