絵画の世界でも、マネによって「近代」は生まれたのですが、
その近代性を無粋に「説明しよう」というのが、マグリットだったりするといった状況です。
そんな中で「近代化」しても、画家は裸婦画を描くというものらしく、
モディリアーニが裸婦画の名作を数多く生み出し、フジタもそれに続きます。
NHK「日曜美術館」の製作を長年勤めた山下茂氏の旅は、
フジタを読み解くためと称して、モディリアーニの「卑猥」へと寄り道しています。
連載第七回はコチラ
マグリットのお節介もしくは蛇足は、近代人の要請?
前回、一つ言い忘れていたことがあった。
ベルギーのシュールレアリスムの画家、ルネ・マグリットのことである。
日本人は以前からこの画家が好きで、最近でも2015年に東京と京都で大規模な回顧展が開かれて話題となった。
『凌辱』(1934年)と題する、女性の顔を描いた絵画を知っている人もいるだろう。
両目が乳房に、へそが鼻に、口が陰部に置き換えられている、男なら思わず苦笑せざるを得ない作品だ。畢竟(ひっきょう)マグリットの人気は、その分かりやすさにある。この絵も、女性の顔を見ながら「隠された性的な部分」を、あなたは連想していませんかと、辛辣な問いを投げかるという、知的な「おかしみ」が魅力なのだ。
そのマグリットが、マネの『バルコニー』のパロディを描いている。
その名も『遠近法Ⅱ マネのバルコニー』(1950年)という。
『バルコニー』の登場人物を、すべて棺桶に置き換えたものだ。「遠近法」と、ここでマグリットが言うのは、時間=歴史のパースペクティブの中に、これらの洗練された(もしくは、気取った)パリジャンたちを置いてみれば、いずれみな年老いて色あせ、はかなく死んでいく存在なのだ、といった含意に基づく。
しかし、マネに言わせれば、時間=歴史のはるかな見通しの中に、わざわざ彼らを据えなおすまでもなく、すでに彼らは生きていない「死人たち」なのだ、と返すだろう。
生きながら死んだも同然、そんな彼らこそが「歴史」ではなく「現代」を象徴すると思えばこそ、近代画家としてマネは彼らを描いたのだ。
つまりマグリットのパロディは、余計なおせっかい、蛇足に過ぎない。
言葉を換えれば、それはせいぜい、マネの絵から主題をくみ取れない人のための、バカ丁寧な解説である。
その意味で『遠近法Ⅱ マネのバルコニー』は、絵画というより「イラスト」に近いといえる。そして、せわしない現代の我々は、しばしば絵画よりイラストを好む。
(とはいえ、フジタより12歳年下で、フジタより1年早く亡くなったマグリットと彼の作品群は、私が進めようとする議論の補助線として、何かと「有効」なので、今後とも機会あるごとに引用はしたい)
ちょっと横道にそれるが、もう一つ、面白いことを紹介しよう。
マグリットがシュールレアリストになる前の「習作期」に、妻のジョルジェットを描いた『横たわる裸婦』(1923年)という作品だ。フジタが盛んに裸婦を描き、パリ画壇の寵児に「のし上がろう」としていた同じ時期に、マグリットもまた、同じポーズの裸婦を描いていたのだ。
フジタの研究家として、現在、健筆をふるっている林洋子さんによると、この時代、裸婦を描くことがブームになっていた。それは何故か?ということについては、またのちに触れるが、前々回、オークションでの高額落札ベストテンに入っていることを紹介したモディリアーニの裸婦画『赤いヌード』も、そんな時代の産物だ。いや、彼の場合、ブームがやってくる前に亡くなっているから、悲しい先駆けだったというべきだろうが・・・。