バブル崩壊までは強かった日本の企業の人事部
「児玉(筆者注:日露戦争時の陸軍総参謀長)が柳樹房へ騎行しているとき、児玉のそばへ、この会議(筆者注:日露戦争の激戦地である二〇三高地攻略がこう着状態に陥ったため、戦略の方針を大転換させるために児玉が開いた会議)に参加する第七師団長大迫尚敏中将がおいついてきた。大迫は鞍に提灯をぶらさげていた。
『大迫さんか』児玉から声をかけた。
『ああ、閣下でございましたか』と、大迫は馬の脚をゆるめた。
『北海道の兵は強いそうだな』児玉はいった。
大迫は、左様でございます、強うございます、といったが、正確には強かったですというべきであろう。かれの旭川の第七師団は、旅順での部署についたときは一万五千もいたが、わずか数日の間に千人に減っていた。」
(司馬遼太郎(1978)『坂の上の雲 五』文春文庫 p89)
引用が少し長くなりましたが、映画でも有名になった、旅順の「二◯三高地」の攻防における名場面です。
旅順方面に派遣された陸軍第三軍司令部は、日清戦争以来の「勝利の方程式」である「銃剣突撃」による白兵戦に固執し、機関銃を始めとしたロシア軍の近代的軍装備の前に、大きな損害を出しながら、何ら成果を挙げることができませんでした。そこで児玉大将は、単身で柳樹房にあった第三軍司令部に赴き、司令官の乃木希典に直談判をします。そして、東京のお台場から運びこんだ、首都防衛用の巨大な要塞砲を要塞攻略に用いるという「新基軸」によって、この作戦を成功に導くことができました。
この引用から述べたいのは、戦後の日本企業の人事部門も「バブル経済が崩壊」するまでは、相当に「強かった」のだという点です。
前回まで考察してきたように、「能力」を基軸とした日本企業の人事は、人材の配置を柔軟に行い、未経験の新卒者を企業のニーズに合致する人材に「育成」することに優れていました。
新卒で最初に「人事部門」に配属された社員も、社内の職場・職務を「ローテーション」して体験することによって、人事部門内外の経験を積むことで「広く浅く」ではあっても「業務の知識」を蓄えて、そのスキルを磨くことができていました。
日本の高度経済成長期以降の「右肩上がり」という経済環境に後押しされるという、比較的「単純な」競争環境においては、このような幅広い経験を積んだ「ゼネラリスト的な人材育成」を基本とするキャリア開発が、人事部門でも「王道」とされてきました。
特に大手企業では、大卒男性の幹部候補を「人事マン」(筆者注:当時は「人事ウーマン」という言葉はありませんでした)として、人事部での経験を積ませることが、将来、経営層に登用するにも、重要な「キャリアパス」となっていました。また、人事部門における仕事も、給与計算や社会保険といった「事務作業」は、高卒のベテラン男性の監督の下で、高卒や短大卒の女性社員が行なうことが一般的でした。
一方で、人事部の大卒男性は、ビジネス部門と調整して「昇進」「昇格」、そして「ローテーションの管理」を行うことが、主な仕事とされていました。
大卒の女性は『雇用機会均等法』施行前は、そもそも採用すらされていませんでした。人材開発はOJTが中心でしたから、基本的には「現場」に任せきりになっていました。けれども、バブルが崩壊する1990年代以降になると、こうした人事部門の「在り方」が転機をむかえます。『雇用機会均等法』の施行や「非正規雇用」の増加にともなって、雇用や人事管理のやり方が、複雑で専門的になってきました。
「企業間競争」の激化に伴い、人材の獲得競争も厳しくなっています。
グローバルでは「採用」「抜擢」「評価」「報酬管理」「人材開発」といった、いわゆる「人事」に含まれる各分野において、新しい取り組みが日進月歩で行われています。例えば「採用」の分野であれば、これまでのような「面接方法」や「面接官」によって評価のズレが無いように、見極めの判断基準を標準化した「行動面接手法」などの「構造化面接法」が開発され、評価の「面接確度」が高まっています。また、Webでできるさまざまな「アセスメントテスト」も存在します。SNSを使った採用も最近では広く使われるようになりました。
さらに、将来の経営者を選ぶ「後任者計画」も、外資系のみならず、日本の企業でも行われるようになってきています。「報酬管理」についても、これまでの1年毎の評価による金銭的な評価だけではなく、複数年のパフォーマンスによる、非金銭的な「株式を使った報酬」も検討されています。
こうした「進歩」に伴って、世界では人事部門で仕事をしている人にも、IT、心理学、そして統計学やファイナンスなどの幅広い知識が必要になっています。
→世界の人事部の「進化」している方向とは・・・