マネからフジタへ、近代画家の「喪われた物語を描く」という責務。

画家は物語を描く。物語が喪われたとしても、だ。

読者の中には、再び考え過ぎだと思われる人もいるだろう。
しかし、マネ以前の画家が群像を描くとき、そこにはいつも「物語」があった。特別な、忘れてはならない物語が!
これについての最高の例を挙げよう。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だ。
まずは、文語訳聖書から、『最後の晩餐』の該当箇所を引いてみよう。
「日暮れてイエス12弟子とともに往き、みな席に就きて食するとき言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ。我と共に食する汝らの中の一人、我を売らん』弟子たち憂ひて一人一人『われなるか』と言ひ出でしに・・・」(マルコ伝)
『最後の晩餐』に描かれた人物は、イエスを含めて13人。
画面中央のイエスは、言い放った後、悲しそうに下を見ている。まず画面左の3人を見てみよう。一番左のバルトロマイは、イエスの言葉に思わず立ち上がり、テーブルに手をついて身を乗り出し「それは誰なんです!」といわんばかりにイエスを見つめている。その右の小ヤコブもイエスの言葉の続きを聴こうと左手を伸ばし、やはり視線はイエスをとらえている。その右のアンデレは驚きに両手を上げ、イエスの方を振り返った瞬間だ。
その右のペテロは、イエスの隣に座っているヨハネの肩に手をかけ、ヨハネを引き寄せ至近距離で問いかける。「お前はそれが誰だか知っているのか?」。引き寄せられたヨハネの方は、じっと目を伏せている。まるで、隣に座っているユダと視線を合わさないかのように。
さて、問題のユダは、愕然とした表情でイエスを見つめる。
「知っていたのですか!」
今度は画面右側。シモン、タダイ、マタイの3人はイエスの方を見ていない。「誰なんだ!」と、互いに議論を始めたところだ。その左の3人。両手を自らの胸に当て、「私ではありません!」と懇願するようなピリポと、人差し指を立て「私だというのですか!」とイエスに抗議するような大ヤコブ。この二人を両手を広げて押しとどめ「師の言葉を聴け!」と必死の形相のトマソ。

『最後の晩餐』

弟子たちの実に多様な物語が、この1枚の画面の中で同時進行している。
レオナルドらしく、手の表情もそれぞれ描き分けられ見事なものだが、それ以上に目の表現、つまり「視線」が多くを語っている。中央のイエスが巻き起こした波乱が、画面全体に広がり、大きな「うねり」となって見るものに迫ってくる。これがドラマであり「物語」なのである。
しかもその物語は、ただの物語ではない。救い主が間近に迫った「受難」を予言し、弟子たちがそれを聞いたという、イエス伝の中でも最も劇的でホットな、いや、それ以上に「世界と人間の運命」を決定した「特権的な物語」を描いているのだ。
これに比べれば、マネが描いた『バルコニー』の情景が、いかに「冷え切った」ものか、分かっていただけるだろう。
しかし、レオナルドが画家の使命として『最後の晩餐』を描いたように、マネもまた近代という「物語を喪った時代」の画家として「物語を喪った物語」を描くことで、その責務を果たそうとしたのだ。
そしてフジタは、マネが指し示した、この「物語と人間の解体」を描くという、近代画家としての「責務」に、自身の命運をかけることにしたのである。

◇山下 茂(やました しげる)
NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー
1961年広島県生まれ。東京大学文学部国文科卒。1984年NHK入局。情報番組・経済番組などのディレクターを経て、美術番組のプロデューサーに。現在、NHKエンタープライズで、美術・歴史番組の制作に当たっている。

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