デュシャンが「便器」や「ガラクタ」で笑い飛ばした「西洋」の価値観とは何だったのか、そして極東の片隅の我々は、その価値感を本当に理解しているのか?平成の上野から、物語は戦前の藤田嗣治の暮らしたパリへ。
NHK「日曜美術館」の製作を長年勤めた、山下茂氏の思索の旅が始まります。
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上野であらためて、デュシャンの「破壊」を考える
先日、上野へ行った。展覧会を見るためである。
東京国立博物館の「マルセル・デュシャンと日本美術」だ。マルセル・デュシャン(1887-1968)は、いうまでもなく現代美術への扉を開いた(何と呼べばいいのか?)レディメイド(既製品)を“芸術”と称して「何が芸術か」を問いつづけたあと、後半生はチェスばかりして創作しないことが伝説となった「20世紀の奇人変人!」である。
この展覧会そのものは、日本の「茶の美学」には、デュシャンと共通するものがあるという建前の、いささか強引なテーマ立ての展覧会だった。
取り柄は、デュシャンの主要作品を所蔵するアメリカのフィラデルフィア美術館(あの「ロッキー」にしばしば出てくる、大階段のある建物!)から、西洋美術の価値観を徹底的に破壊した悪名高き作品群が来ているということだ。
しかし私には、それとは別に、どうしても今回、見ておきたいモノがあった。彼の代表作「大ガラス」だ。正確に言えば、世界に3つあるそのレプリカの一つ(他はロンドンとストックホルム)であり、本物はフィラデルフィア美術館にある。
なぜ「本物」が来ていないのか?ガラスでできていて、移動・搬送することが不可能だからだ。現に一度、ガラスが割れ、デュシャン自身の手で修復されたが、幾筋もの無残な亀裂がそのまま残った。(もっともデュシャン自身は「私好みの偶像破壊的な風合いとなっている」と喜んだというが・・・)
その意味で、今回展示されているレプリカは貴重だ。レプリカといって「嗤って」はいけない。そんなことをすれば、今度はあなたがデュシャンに嗤われることになる。デュシャンと聞いてピンとこない人でも、「モナリザ」の複製に髭をつけた人、便器をさかさまにして「泉」と題して展覧会に出品し、大いに物議を醸した人、といえば思い出す人もいるだろう。
その「泉」も、オリジナルは現存していない。
いや、ただの便器をオリジナルだからと言って後生大事に崇める精神そのものを嗤い飛ばそう、というのがデュシャンなのだ。
しかし実は、このレプリカ、今回の展覧会を見損なっても、誰でも、いつでも見ることができる。東京・駒場の東大駒場博物館に常設展示されているのだ。実は、この稿でデュシャンについての考えをまとめるために、もう一度見ておこうと駒場に出かけたら、間抜けなことに、この展覧会に出展されているというので、今回上野に行く気になったのだ。
私は1980年、東大に入学した。最初の2年間駒場に通い、そのあと本郷キャンパスに行くようになっても、駒場に住んでいたので、幾たびか駒場博物館でこの作品と対峙した。レプリカとはいえ、現代美術の「最大の問題作」がここにあることを誰も知らないのか、いつも展示室に人影はなく、心行くまで作品と対峙できた。
就職しても、一度か二度訪ねたから、今回おそらく20年ぶりの対面となった。なぜ、この「大ガラス」東京ヴァージョンが制作され駒場にあるのか、という話も大変面白いので、またいつか触れてみたいが、このレプリカでさえ、駒場を出て展示されたのは38年間で4度目だそうだ。