鑑賞者の「視点」そのものを、自身の作品の中に引き込んでいく。昭和後期から平成バブル期に一世を風靡した、ある作家の「視点」と「躍動」そしてその作者の「背景」に、NHK「日曜美術館」のプロデューサーを長年勤めた、山下茂氏が迫ります。
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バブルのなごり、もしくは経営者と美術
鎌倉・・・。若宮大路を鶴岡八幡宮の手前で左に折れ、海の方に向かって歩く。閑静な住宅街をしばらく歩くと、少々息が切れるころ、小高い丘の中腹にその建物はあった。
「鎌倉大谷記念美術館」。
ホテル・ニューオータニの会長だった故大谷米一氏の別邸で、氏のコレクションを展示していた。
「豪壮」というより「瀟洒」なたたずまいの洋館。庭に面して明るいサンルームがあり、二階の広い窓からは海が見えた。いくつもある部屋には、それぞれ自慢の絵が飾られ、階段の吹き抜けの壁には、確か「ボナール」の大きな絵が掛けられていた。日本の富豪たちは、こんな風にひとり絵を楽しんでいたのかと、ずいぶん羨ましかったものだ。大観や御舟など日本画にも良いものがあったが(特に前田青邨は名品だった)、洋画の方も趣味がよかった。デュフィとヴラマンクがコレクションの中心だった。
デュフィはしばらく措くとして、今回はヴラマンクについて書く。
「野獣派」として記憶される、一世を風靡した異色の画家
モーリス・ド・ヴラマンク。日本では、佐伯祐三とのエピソードで知られる。
わざわざ会いに来た佐伯の絵を見て、一言「この、アカデミズム!」と断罪し、短かった佐伯の生涯において、決定的な示唆を与えたとされる。
もちろん、20世紀初頭の絵画革命「フォーヴィスム」の旗手だ。「フォーヴ」というのはフランス語で「野獣」の意味であり、「フォーヴィスム」とは、原色を多用したり、その筆致が荒々しくうねったりと、モチーフに対する作者の荒々しく強い思い入れを表現した作風とその運動を示す。マティスも代表作家のひとりだ。
ヴラマンク自身は、フォーヴの運動が沈静化した後、セザンヌの後を慕うように独特の風景画や花の絵を描き続け、日本でも人気があった。暗い色調にもかかわらず、その激しく燃えるようなタッチは、特に昭和の財界の人々に愛された。
孤独な企業経営者たちは、しばしばこうしたエネルギッシュな絵に「鼓舞」されるものなのか、彼らはヴラマンクから「何」を感じ取ったのか・・・。
ニヒルに言えば、ヴラマンクの後期の作品は、フォーヴ時代の「10分の1程度の価格」だったというから、手に入りやすい「巨匠」という点も、その人気の秘密だったのかもしれない(鎌倉大谷記念美術館にあったのも、後期の作品ばかりだった)。
しかし、今日その名は美術ファンの間ですら忘れられつつある。展覧会が開かれることも稀になった。去年から今年にかけ、ほぼ10年ぶりに国内で催された「ヴラマンク展」も、甲府・広島・北九州を巡回したのみで、結局都内では開かれていない・・・。
さらに、大谷記念美術館も、2016年にすでに閉館してしまっている。
その「忘れられた巨匠」を、なぜいま、ここに持ち出すのか。それは「遠近法」についての私の眼を、このヴラマンクが開かせてくれたからである。
私が最初にこの小さな個人美術館を訪れたのは、開館間もないころだったから、1997年だったと思う。NHKの美術番組班のデスクになって1年。やっと少しは絵を「裸眼」あるいは「肉眼」で見ることができるようになっていたころだ。
いま、その時に購った「鎌倉大谷記念美術館名品選」を探したが、どうしても見つからない。処分してしまったのだろうか。そこで、同じ1997年にBunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)で開かれた「ヴラマンク展」の図録を参照することにする。
今日、ヴラマンクの評価を下げているのは、彼が飽くことなく、同じようなモチーフを描き続けた、その「マンネリズム」にある。