日本人の追い求めた西洋の「視点」

最初の場所では・・・その1

西洋の「そもそも」を求めて

このエッセイの表題は「最初の場所では」である。
「・・・in the first place」の逐語訳だ。いま時、こんな文語的表現はあまり使われないそうだが、本来は「そもそも・・・」という意味だという。「そもそも・・・」と問い直すことなしに欧米の今の流行をいくら追いかけても、彼らのモノの見方・見え方を理解できなければ、その流行の必然性は腹に落ちないだろう。

現代の映画を観ても音楽を聴いても、あちらの人と「気の利いた会話」ができる日本人がいったい、何人いるだろうか?
それは、おそらく「語学力の不足」だけが原因ではあるまい。

いま、言葉の問題を挙げたが、もちろん「西洋」を理解するといった場合「言葉」を対象にすることも可能だ。いや、実は近代日本はそれを最も熱心にやってきた。
しかし、あえて言うが「言葉」は「音楽」や「絵画」ほど直截的ではない、というのが私の直感だ。「絵画」(に象徴される「美術」)の中に、人が見出だす共感と違和こそ、本能的致命的なものなのではないかと思う。

これから「絵画」を素材に「西洋という異質」のものの閲歴を少しばかり辿り直したい。そんなことが私の非才でできるかどうかわからないが、ともかくやってみよう。

以上が本稿を始めるにあたっての私の見通しだが、まずはその「見通し」、英語でいえば「Perspective=パースペクティブ」というものを最初のテーマに取り上げたい。

何をどこから観るのか

さあ、そこで冒頭の数行に立ち戻る。
東洋の「山水画」では、掛軸などで「人物」を下の方に小さく、遠くの山を上の方に大きく描くのが古来からの「約束」だった。(例えば雪舟の「山水長巻」、あるいは内藤湖南『支那絵画史』に図版のある馬遠(南宋)の「松下訪隠図」)実際に山に登るか、いや、麓まで行っただけでも、山の大きさは誰しも実感するだろう。
しかし西洋人は奇妙なことを始めた。実際には山に行ったことがあるのに、初めて見るように山を見て描いたのだ。

自分を原点として「遠近法」に忠実に「見れば」、たとえ実物の山は高く大きくとも「いま、ここに」立っている「私」には、手前の人間の方が、何倍も大きく見える!(再び例を挙げれば、もちろんあの「モナリザ」、そしてジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」=ドレスデン アルテマイスター絵画館蔵)

こうした「いま」「ここ」「私」への驚くべき執着。
そして、すべてを「私」との距離で評価しようとする「倨傲」な精神。

それは、西洋史の一つの転換期となる大航海時代、未知の大海に乗り出した、あの荒くれ者の船乗りたちの「冒険心」と「傲慢さ」を思わせるではないか!
西洋人もまた我々と同じく、優れて自身の文化の「馴化」の渦中に生きているという「証左」に私には思えるのだ。
連載第二回はコチラ

◇山下 茂(やました しげる)
NHKエンタープライズ エグゼクティブ・プロデューサー
1961年広島県生まれ。東京大学文学部国文科卒。1984年NHK入局。情報番組・経済番組などのディレクターを経て、美術番組のプロデューサーに。現在、NHKエンタープライズで、美術・歴史番組の制作に当たっている。

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