山は雄大であり、それに比べれば人間はちっぽけな存在にすぎない・・・。
当たり前のことだ。しかし、だからといって「山を大きく、人を小さく」描くことまで、当然のことだと言いえるか?
「いや、そうでもない!」と主張し始めたところから「西洋の絵画」は独自の発展を遂げることになる・・・。
現場の年月と数が鍛えてくれた「美術の眼」
私はNHKで30年以上にわたってディレクター・プロデューサーとして、1,000本以上の番組制作の現場に立ち会い、そのうち三分の一ほどは、美術番組を作ってきた。今も続いている番組でいうと「日曜美術館」「美の壺」など。NHKスペシャルやBSの特番でも「美術」をテーマにしたものを制作してきた。
もとより大学で美術を専攻したわけではない。
だから、美術番組を制作することが少年時代以来の夢だったとはいえ、本当にその担当になったときは、いささか焦った。週末ごとに美術館に通い、土曜日には神田の古本屋街をぶらついて、美術関係の書物をひたすら「渉猟」した。
実際、番組を作るようになると、自分自身の「知見」の及ばない、広範な刺激を受けることになった。著名な画家や工芸家や現代美術家、また小説家や映画監督、詩人などなど「美術」に一家言ある人々から、どれほど啓発されたことだろう。
こうした美術番組が扱う題材は、それこそ「古今東西」。
インパクトと言う点では「洞窟壁画」から「デュシャン」まで、地域のムーブメントとしては「古代中国」から「メキシコ・ルネサンス」まで、はたまた古くて小さな「縄文の土偶」からモダンで巨大な「クリストのインスタレーション」までと、節操もないほど多岐にわたった。
日本人にとっての「西洋の精神」
そんな私が、特に「西洋美術」なかんずく「絵画」に魅せられたのは、ごくごく凡庸な反応だったといえるかもしれない。しかし、そこには私なりの予感があった。(実は音楽もそうなのだが)絵画こそ「西洋の精神」といったもの、明治以来の私たちが「唯一無二の規範」とし、あるいは「目の敵」のように戦ってきた「モノ」の、最もあからさまな姿を見せてくれているのではないか、という予感である。
「モノの見方」あるいは「見え方」というものは、優れて文化的な制約を持つ。
馴化され、日常の暮らしの中で「あたりまえ」として麻痺しており、強く「意識」できないでいるが、私たちは西洋の絵画に「違和感」を、今日なお持っているのではないか?
ところが、その「違和感」を突き詰めないうちに、あちら(イメージとしての「西洋」とでもいうべきか)で起こる、新たなムーブメントを誰よりも早く「紹介」し「模倣する」ことに、ある時期までの日本の芸術界は「汲汲」としてきたのではないか。
さて21世紀になると、私たちも、さすがにそんなことに飽きてきた。
一方で「西洋」の方でも、芸術運動全体に元気がなくなってきて、日本や中国が「物珍しい」のか「東洋」を盛んにもてはやすようになった。
そんな情勢を見て、私たちは、そろそろ「西洋に学ぶ」ことから卒業だとばかり、今度は奇妙な自信をもって「西洋」と対峙している、それが現状だ。
しかし彼らが私たちを見て「面白い」と思ってくれても、なぜ「面白がるのか」を私たちが本当に理解できているかというと、おそらくできていないのだ。
「模倣の時代」も「訣別・対峙の時代」も、残念ながら同じように「西洋の精神」は、私たちにとって「謎」のままだ。